私にとって「海経」とは?

              J 小 西  博 雄

 

昭和十九年(一九四四)秋、東京・品川にあった海軍経理学校に入校した。「海経」は海軍士官養成学校として、海軍生徒三校の中で一番難関だったらしい。私は、完全に幸運で合格した訳で、出身中学校では「あいつが?」と教師や同級生が信じなかった程で・・・私も、あの三日間の筆記試験で、周りの受験番号が真っ赤に消されてゆくなかで、私の番号が最後まで残っていたのが今でも不思議でならない。そこから先は、当時の井上成美海軍次官の「ボーダーライン上の受験者で海軍士官の縁者は皆採用せよ」という指示で、憲兵による身元調査もなく目出たく合格となった訳だ。三七期五百名中海軍関係者は六十名近くいた筈で、勿論その皆がボーダーラインという訳ではない。只私自身は、確信をもって五百名中五百番近くに位置していたということである。尤も、この時の全国受験者倍率は約三十倍だったそうだから、私もまんざら捨てたものでもないが・・・。

さて、希望に胸を膨らませて入校した私を待ち受けていたのは、鬼の一号という存在だ。たった一年半前に入校したに過ぎない、年齢もそんなに違わない男達が、親にも殆ど殴られたことのない紅顔の私を殴る殴る・・・。私の父康雄が海兵四八期(井上隊監事とコレス、当時通信学校教頭)、私の弟岑雄が戦後の防衛大学校一期(自衛艦隊司令官)、ともに鉄拳制裁がなかったということで、私の猛烈に殴られた話を、信じられないとけげんな顔をしている。

「一号」即ち三五期の人達にも中々立派な人達がいたことはいた。戦後ゴルフなどでつきあって、この人があの時何故と思ったものだ。きちんとした制裁の理由があれば、まだ許せる。しかし、私の分隊は一号が七名いたが、毎晩毎晩最低で往復二発計一四発。私は二千発位までは数えたが、あとは馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。彼等は、本当にどういう気持であの猛烈な鉄拳制裁をやったのだろうか。「海軍魂」?、「海軍精神」?、冗談ではない! その「精神主義」、「非合理性」の故に海軍は壊滅してしまったのではないか?

私が今でも思い出して尊敬の念を抱くのは、「石井」、「佐藤」の両指導官と何人かの分隊監事達だけだ。

教官といえば、当時の「海経」は何とすばらしい大勢の文官教授に恵まれていたことか。私にはその講義内容を殆ど理解できなかったが、当時の東京帝大の牧野、我妻、舞出教授達、東京商大の中山、井藤、吾妻、太田教授達、そして京都帝大の岸本教授、よくもあれだけの陣容を揃えられたものだ、と今にしてつくづく思う。

そのお陰か?終戦直後昭和二十年(一九四五)秋、復員学徒の転入学を、当時の東京商大(現一橋大学)は、「海経」に一寸在学していただけの私に大きく門戸を開いてくれた。今でも何とも言えない気持ちで、あの転入試験を思い出す。本当に「赤面」、「汗顔」の至り。簡単な論文とそして面接。たしか井藤半弥教授だったと思うが、「君リベラリズムとは何かね?」、「はい民主主義です」。教授ニヤリ、「それではデモクラシーとは?」しまった、えい「はい自由主義です」。教授ニヤリ、ニヤリ!それで一橋合格だ! たしか海経から転入希望した者は、全員受かったのではなかったろうか?

あの海経入学以来、今年で丁度六十年。私の人生は「海経」試験三日間の真っ赤に消された番号の中で、私の番号が僥倖にも生き残ったことによって始まり、支配されてきたといっても過言ではない。まもなく我々も「あの世」とやらに行くことになる。あちらへ行ったら三七期の諸君! 三五期をあの世の「道場」に集めて「ストーム」をやろうではないか。あの時と同じ温厚な「井手」当直監事の許可を得て、間違いなく我々より年老いた「百人」を五百人で取り囲み、「一号よく聞け」、「足を開け」、「歯をかみしめろ」、「ふらふらするな」と思い切りぶん殴ってやろう。理由? そんなものあるか、「海軍魂」さ!

 

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