鬼の十一分隊の想い出

J 小  川   浩

 

○まえがき

 近畿の三田会長から寄稿文の依頼があり、表題でどうかとのことだった。簡単に引き受けたが、字数を減らすのに苫労し後悔した。しかし、海経三七期は軍部諸学校の中で一番苦労した筈で、その一端を記す義務を感じた。

○「十一分隊三号のモットー」(十一分隊三号の憲法)

 一号生徒から与えられた「モットー」は、「元気」、「明朗」、「三号第一線」(時によって十一分隊三号第一線)であった。これを毎晩一号生徒の前で声を張り上げた。

「元気」・・・しょぼしょぼしない。大声を出すことであった。一号生徒との応答で、何度もやり直し。一週間で声が嗄れた。

「明朗」・・言い訳をしないこと。その他諸々の一号を怒らせるようなことをしないこと。一号が怒ると、分隊内の雰囲気が暗くなるからという論法であった。

「三号第一線」・・・行動はすべて三号が先頭を切って行うこと。また第一線は第一等に通じ、他の分隊に後れをとってはならない意味もあった。

○鉄拳制裁

 「巡検用意」から「巡検」まで、どれだけ時間があったか、今だに知らない。しかし、これが三号にとって一日の終わりの一番長い時間であった。

 各自のベッドの前に整列し、まず「巡検用意」と「総員起こし」の繰り返しから始まる。遅い者、整頓の悪い者は、鬼の形相で面罵される。次に「三号聞け、貴様らは」で始まるとその日の憲法違反が知らされ、連帯責任の鉄拳制裁だ。七人の一号生徒の拳骨は何れ劣らぬ猛者ぞろいであった。

 目を閉じたり、ひょろけたりしたら大変だった。「目を閉じる奴があるか」、「ひょろひょろするな」の声が飛ぶ。一番大きく殴り倒すことを本分としている一号生徒の時、拳骨が当たる瞬間に、重心を動かし、頬ではね返すのがコツだったが、何と反対の手が先に来て、思わず一歩大きくよろけた。エジキになることを覚悟したが、なんと「ボヤボヤするな」で済んだものだった。

 突然の「寝ろ」の声に、一挙動でベッドに飛び込む。間一髪、週番生徒の「巡検」の声と共にドアが開く。毎晩のことであった。

○短艇訓練

 分隊訓練「短艇]が近づくと一号は喜び、三号は青ざめた。一号の指揮の下に三号が漕ぐ。「イーチ」で腕と身体を一杯前に出し、「ニイー」で擢を漕ぎ終わり、足先から頭まで一直線になる。二段漕法だ。暫く続くと「ニイー」のところで「待て」がかかる。これを繰り返すと腹筋が堪えられず後ろへ倒れる。忽ち指揮棒が頭上へ。

 いつの間にか他の艇と並んでいる。「力漕だ負けるな」で「イー

チ」、「イーチ」の漕法になる。負けると岸に上がってから鉄拳制裁だ。握力が衰え、腕、尻、腹が痛み、体力の限界を必死に堪える。その時一番小柄でこわい一号生徒の声が響いた。「なんだなんだその顔は。苦しかったら涙は出しても、顔は笑うんだ。笑え!笑え!」と吠えたものだった。兵学校の生徒に漕ぎ終わって死んだ者がいたと聞いていた。死んだ方が楽だと思った。

○優勝分隊

 そもそも十一分隊は、優勝分隊になることが義務づけられていた気がする。分隊内教育の海軍体操、ベッドカッターもきつかった。

 分隊競技の柔道と短艇に参加し、短艇では優勝した。この時の短艇ほど楽なのは初めてだった。優勝分隊になって、入校時の歓迎会以来初めて一号生徒の笑顔を見た。その時一番喜んだのは一号生徒であった。三号はその夜はストームが無いのを唯一喜んだ。そして軍歌「うれしやたのし・・・」を天に届けと声を張り上げた。

○終わりに

 僅か一年足らずの生徒生活であったが、三号時の厳しい体験は、その後の社会生活に「何のこれしき」、「これ位で負けるか」の自信と逞しさ、頑張りを与えてくれた。

 忘れてならないのは二号生徒であった。「一号がこわい分隊の二号は優しい」というが、正に「鬼の一号に対し佛の二号」であった。温かく、親身に細かく教えてくれたことは忘れられない。

 社会に出て、製造現場の仕事が多く、部下も多かったが、「二号生徒のように部下に接する」ことに気を付けた。これは間違いなかったと思っている。

 

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