リベラルな海軍

―海軍経理学校での一体験―

              G 増  田   宏

 

軍国主義の中学校

 子供の頃腺病質と言われ、小学校六年の前半は初期の肺結核で休学、留年しようと考えていたところ、府立の新設校が近くにできるので、有名校より易しいだろうと受験、府立十二中(千歳中)に入ることができた。

 しかし、大変な中学であった。先ず服装はスフの軍服まがいのもの、ゲートルを巻き背嚢を背負って通学というスタイルであった。昭和十四年当時は、まだ大部分は紺か黒の詰め襟であったなかでは異色であった。まるで幼年学校の生徒のようだと言われた。教練が最も重視された。印象に残っているのは何回も行われた宮城前までの誓忠行軍。中でも、雨中の行軍で新調したスフの制服がゴワゴワと固くなり、すぐ破れてしまったのが印象的であった。(国策の線に沿って真っ先にスフの制服を採用したが、まだ技術が進んでいなかった。)三年生の時は百キロ行軍、四年生の時は軽井沢での演習の後の草津白根越え、軽井沢から草津、白根山を越え、熊の湯、湯田中へ出る重装備の強行軍であった。まだ雪はかなり残っており、演習の疲れと寒さで落伍者が多く、極めて厳しいものであった。私は、一人前でなかったので、百キロ行軍の時も白根越えの時も、銃は持たない看護兵の役であったが、思いのほか元気で任務遂行の義務感から落伍者を支援、銃まで肩代わりすることができた。しかし、この行軍は、遭難事故にもつながりかねないものであり、後々まで語り草となった。厳しい軍事訓練の成果は、学校教練の査閲で優秀校として上位を占め、新設校を忽ち有名校にし、教練の千歳中と言われるようになった。

 日中戦争のさなかに新設された中学であり、軍国主義に徹したスパルタ教育であった事は伝統のない学校としては已むを得ないことではあった。野球は敵性国の国技であるから禁止、球技は闘球といってフットボールまがいのものが闘争心を鍛えられるとして奨励された。英語は敵性国語であるとして削減され、語学嫌いの私はホッとしたことを覚えている。校長の国粋教育には反発するものもあったが、同期生は、本来どちらかというと高等学校に進学するようなタイプであったが、戦時下であり次第に軍関係の学校を志願するものが多くなった。四年で海兵に入った仲間が颯爽と勧誘にきたことが印象に残っており、海軍には憧れてはいた。しかし、体力にやや自信がついてきたといっても近視であり、一人息子の私には全く縁はないものと思っていた。この時点では、海軍経理学校のことは全く知らなかったのである。

海軍経理学校の思い出――リベラルな体験――

 中学時代は理系に興味があり、また戦時下では理系でないと徴兵延期にならないので、もっぱら高等学校理科を志望していた。しかし受験に失敗し、浪人せざるを得なくなった。そこで、担任の数学の先生から初めて海軍経理学校の受験を薦められた。自信は全くなかったが受験し、幸い合格することができた。しかし、やはり心配は視力であった。入校時に再度視力検査があり、だめかと観念したが、ここで落ちるのはなんとも悔しいので、とっさに列の後ろの人に頼んで小声で教えてもらい、何とか通過することができた。誰であったか全く思い出せない。

 経理学校に入校して一番驚いたのは、中学校での軍国主義教育とはむしろ全く違い、対照的にリベラルな教育であったことである。先ず中学時代は禁止されていた野球をやっていた。英語教育もしっかりやっていたし、日常生活の中、訓練の中でも英語が盛んに使われていた。戦後、兵学校の校長であった井上成美が「自国語しか話せない海軍士官など世界中どこへ行っても通用しない」と英語廃止に強く反対したことを知り、納得することができた。

また、文官の理系教官の講義であったと思うが、米国と日本を比べて彼我の工業力の違いを率直に話されていたこと。呉での乗艦実習の時、甲板士官が港内で修理中の改装空母の説明で、「正規空母が沈められ、商船の改装空母も甲板がやられてこうして修理中であるが、完成しても乗せる飛行機がない。それに飛行機や軍艦の油もない」と淡々と説明されていたことが忘れられない。このように海軍はリベラルであり自由にものが言えたのではないか。これは私が経験したほんの一例である。

私の失敗談として印象に残っているのは、まだ品川校時代日曜外出から帰りに短剣を忘れたことである。冬の軍装で外套を着ていたため経理学校に着くまで全く気付かず、外套を脱いではじめて気付いた。幸いすぐに家族が気付き、知り合いに託してくれ、何とか手元に戻すことができた。中学校での軍国主義教育を受けていた私は、「武士の魂を」と激しい制裁を受けると思っていた。しかし、一号生徒は「短剣は服装の一部である」とのことで穏便に済ましてくれた。これは非常な驚きであった。

海軍経理学校での経験は、軍国主義教育を受けた中学時代とは非常な格差があり、戸惑うものであったが、お蔭で厳しい訓練、一号生徒の鉄拳制裁も乗り越えることができた。

 

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