食いものうらばなし

                 F 石 坂  和 夫

              

今までの人生で、海経時代の比重は重い。その思い出が徐々に不確実となるのは残念なことである。諸士の高邁な話や論評が出てくるのを楽しみにしている。私は食いものに限定した。食いもの、下らないと思う方は、読まない方が良い。予めお断りしておく。 

海経に入校すべく、九月下旬父と上京した。握り飯三食、自家製のパンもどき等、庭に自生のザクロ二個、ザクロは何故かはっきり記憶している。翌朝車内販売で、東京行きの切符を提示するとコッペパンが買えるとの連絡があった。固く黒く臭く食べられなかった。

目黒駅で降り、白金台町に向かった。表通りに、味の素の顧問弁護士をしていた吉田敬直さんの家があった。郷里熊本出身で、祖父と同じ国権党の知人であった。離れがあって、父母の新婚時代の新居でもあった。スイトンをどうぞと言う。どんなご馳走かと思ったら、熊本で言うだご汁(団子汁)の汁が澄んだものだった。「先日山下将軍が比島に行く前に別れに来た。その時の土産だ」と言い乾燥バナナを出してくれた。珍しかったので食べ過ぎたのか、経校入校の日は、腹をこわしていた。「比島に行ったら頑張る、しかし、希望した人選の部下をよこしてくれるかが心配だ」と話しておられた由である。

森川町の法大助教授宅を訪れた。中学担任の久我先生の教え子で、「海経に行ったら法律の講義があるだろう。分からない時は質問に行ったらどうか」と、紹介された方である。名前は失念した。綺麗な紅茶茶碗に砂糖の入っていない紅茶とシャケ缶の身をほぐして、野菜、油とまぜたものを出してもらった。フレークは珍しかった。「東条内閣が倒れ、そのあと東京市民のご機嫌取りに配給になったものだ」と、何か皮肉な口調であった。その事が意外で、今でも会話を覚えている。直接戦争を批判する言葉は無かったが、ニヒルな口調だった。

母方の親戚で侍従をしている木下道雄さんが、豊島園近くに住んでおられた。そこにも挨拶に訪れた。私は小学校一年まで中野にいたが、その頃よく遊びに行った所である。広い芝生の庭が印象的だった。宮中から頂いたものだと言われ羊羹を出された。切ってあったが、大きさは倍近くあった。我々が食べていたものと大きさが大分違うので記憶している。

入校の日、父兄に対し説明会があったらしい。誰かが日本は勝てるだろうかと質問した。教官か一号生徒が、「どうでしょうね。皆が頑張らないといけないのではないでしょうかね」との答えがあったそうだ。最後に別れる時、父が話してくれた。世間では絶対勝つぞと緊張していた時代だったので、父も印象に残ったのであろう。発言の自由さが心に残った。

外出の時は、支給されたお菓子を土産に上記の知人宅を訪ねていた。

宮本炳郎君宅に遊びに行ったことがある。同郷の菊池主計科士官と姉上との縁談に関連して、菊池家のことを色々尋ねられた。あまりお役に立てなかったと思う。チョコレートやいろいろご馳走になった。種類が多く却って何を食べたか覚えていない。

正月、関君の兄上が中野におり、郷里から餅を沢山持ってこられていた。その時雑煮もぜんざいも四角に切った餅を焼いてから入れてあった。熊本では丸い餅ではじめから入れてあった。胃袋が小さいのかあまり食べられなかった。兄上が予想した量の半分以下だった。翌日経校で歌舞伎の鑑賞があった。腹をこわしており参った。中座してトイレに行ったか記憶していない。在校中腹をこわしたのは、入校の日とこの時の二回だった。

寝室か温習室か忘れたが、七分隊全員で新宿有名店の最中を食べたことがある。その時一号が「貴様らよく見て覚えておけ。これが最中の正式の食べ方だ」と言い、上の殻をはずし、それで中の小豆餡をすくって食べて見せた。田舎出の純情な小生は、それが本当の食べ方かと感心した。一号は冗談のつもりだったろうが。しかし、それ程殻は固く、餡はやわらかかったということだろう。

その後垂水分校に移転した。荷造りの最中に一号のピストルが不明となり、荷造りの終わった荷物を開けて再検査したことがあった。移転の臨時列車では一号の中村先輩と同席だった。二種軍歌や天文のことを教えてもらった。

舞子駅のそばに、明石で耳鼻科を開業していた飯田さんの自宅があった。同郷の人である。和風の広い屋敷で、庭が綺麗だった。庭の先には国鉄の線路が走り、その先には舞子浜の松林が続いていた。K1君の父上が堺におられて、酒を持って来てくれて一緒に飲んでいた。帰校してもばれない程度に。しかし、後から聞いた話だが、経校の屋上でK1君とK2君はウイスキーを飲んでいたらしい。えらい人もおるもんだ。遠慮もあってしばしばは訪れなかった。後から聞いた話では、かわいい女学生がいて、菓子を楽しみに毎週待っていてくれたそうである。来ないと分かるとがっかりしていた由。毎週行けばよかったと思っている。使わせてもらった部屋には、壁一杯岩波文庫の本が並んでいた。色々読ませてもらった。今でも文庫本を寝転んで読むのが好きである。重い本は駄目だ。読んでもすぐ忘れるが。

関君の友人が須磨にいる。兄がそこに来るから行かないかという。何をご馳走になったか覚えていないが、ウイスキーは飲んだ。トロッとした感じで良いウイスキーだったのだろう。ある程度酔った。帰りの電車は乗り過ごして舞子で降りた。門限にゆとりがあったので、小高い丘の道を経校の方に向かった。現在と異なり家は殆ど無い。海まで見渡せる道を酔いを覚ましながらゆっくり歩いていた。経校の方から下って来られた教頭に出会った。体格のよい方だった。どうしたんだと言われる。デレデレ歩いていたので叱られるかと思った。「帰校まで時間があるので景色を見ながらゆっくり歩いております」と答えたと思う。ところが教頭は、「どこかに私的なクラブをつくったらどうか。それ位の才覚がないと有能な主計科士官にはなれないぞ」というような意味を笑って言われた。よくアルコールがばれなかったものだ。ばれていたが見逃してくれたのか、謎である。私的なクラブをつくった三号が一号から殴られたとの話を聞いているが。

垂水分校第一生徒館の食堂には、大きな黒板と小さな黒板があり、

小さな黒板には献立が記載してあった。ある時大きな黒板に一号の落書きだろうが、有点心となぐり書きしてあった。点心を知らなかった。菓子のことだと説明してくれた。現在の点心とはニュアンスが違うが、点心イコール菓子と思い込んだ。グラタンと書いてあった。恥ずかしながら知らなかった。宮本君が「うまいぞ。楽しみにしておれ」と言った。ドロドロした小麦粉をとかした中に、バター味と塩味があった。中味は覚えていない。期待ほどうまいとは思わなかった。

 副食に汁ものがよく出た。明石が近いためか鯛がよく出た。ボイラーを使用するためか鯛と野菜がくずれ、底に沈んでいる。急いで食べるため堅い骨でガリッとやったことが何回もあった。品川での米飯の石は黒いことが多く取り除くことができたが、垂水のは白い石が多かった。ガリッとやって右下第三臼歯の一部が欠けた。虫歯にもならないで今も残っている。舌でさわる毎に海経を思い出す。困ったものだ。

 黒板にこれも一号だと思うが、All Water, No energy と大きく落書きしてあった。後日教官から空腹感を紛らわせるために汁ものを多くしたとの説明があった。その真摯な対応に今では尊敬している。その当時の感想は覚えていない。恐らくぼんやり無感動に聞き流したのであろう。

 校門を出て急な坂を下りた所にバラック建ての食堂が出来た。崖下の細い一般道を越した所である。外出の時私的クラブの奥さんが話してくれた。知人がこの前食堂の前の道を通った時、黒いおにぎりみたいなものを生徒さんたちが食べていた、海軍さんも苦労しておられるとの評判が立っていると。実はそれはオハギだった。黙っていた。

呉に乗艦実習に行った頃、非常にだるかった。運動量は経校にいる時より少ないはずなのに。下肢に浮腫が出てあまりきついので、食卓でウトウトしていた。肩をこづかれた。少し着古した候補生服を着ていた甲板士官(?)だった。「どうした」「あまり体がだるいので休んでいます」「そうか。大変だね。頑張れよ」と言って立ち去った。殴られなかった。恐らく病気か何かで少尉任官が遅れた人で、優しかったのだろう。今では、脚気の前段階ではなかったかと思っている。垂水での食事でビタミンギリギリのところ、呉に来て急に野菜が減ったので、発病寸前だったのかも知れない。帰校後全員体重が増加したとのことで、カロリーが問題になったのか、検査があった。結果は兎も角として、教官たちが心配してくれていたのだ。ビタミン等の不足で浮腫傾向にあり、体重増加したのではないかと想像しているが。勿論、高木兼寛海軍軍医総監の努力により、海軍においては麦飯で脚気の問題は解決していたが、物資不足の当時では、食料の質も下がりビタミン不足は仕方なかったのか。高木総監の業績は日本では当時あまり評価されなかったが、欧米では評価され、英国南極地名委員会により、昭和三十七年、南極の地名に高木岬と命名された所があるそうだ。

又、体重六〇キロ以上の生徒には増加食が、ツベルクリン反応陽転者には、冷凍ミカン等が別に支給されていた。健康にはそれなりに配慮があったのだ。赤紙一枚で引っ張られたわけではないのだから。少なくとも海軍生徒たちは消耗品だとは思われていなかったようだ。

江田島兵学校を訪問した。棒倒し、軍歌演習を行った。兵学校生徒より元気があったと評判はよかった由、後で教官から聞いた。兵学校の連中は後でドヤされたことだろう。校庭海岸寄りに便所があった。左側に板で区分された所があり、殿下用と書いた札が打ち付けられていたのが、印象に残っている。食いものと関係ないが、その終着駅のことでよかろうと思い記した。

海兵二号生徒との会食があった。カレーとパンだった。終わりに近づいた頃、「海経ではカレーのときの後始末に何か決まりはあるか」と言うので、「何も無い」と答えた。「兵学校ではこうするんだ」と言い、パンの小片で皿をきれいに拭き取った。それに倣った。特に感想は無いが、妙に記憶に残っている。

カレーといえば、今流行の激辛カレーを最初に食べたのは我々であろう。バラック食堂で激辛のカレーが出た。汗を流しながら兎に角食べてしまった。烹炊で量を間違えたと説明があった。ドッと笑った。烹炊の責任者は下士官だろうから、殴られた者はいないだろう。殴られたとしても、分隊士から、その下の下士官が軽く一発やられたくらいだろうと話し合った。

又、一度なまこ入りのカレーが出たそうだ。記憶に無いから、私が入院していた頃のことであろう。恐らく大量のなまこが入荷して、教官たちの酒の肴にはなっただろうが、量が多いので、誰かのアイデアでカレーに投げ込んだのだろう。肉が全く無かったとは思われないから。 

講堂であった講義の時の話である。教官の名前は失念した。国漢か独逸語の講義だったか。脱線して侘び寂びの話となった。野の花をめでて、路傍の何でもない石をめでる等の話であった。最後に急に、「しかしアルミの食器で飯を食うようになったらしまいだね」と言われ、皆でドッと笑った。気分がスッキリした。僅かな自由が流れてきたからか。食べものの話ではないが、妙に覚えている。

七月に入り、和歌山の海軍病院に入院した。人参の葉だけを煮たものが副食として出た。人参は誰が食ったのかと話し合った。又、卵料理がよく出た。理由を聞いたところ、支那から乾燥卵が多量に入ってきたからだと言う。当方が海経生徒と分かっていたからか、烹炊場を見学させてくれた。そこで卵に甘味をつけた菓子とも副食ともつかぬものをご馳走になった。これは、一緒に入院していた宇平君には内緒である。一度戦後になって普及したハンバーグ様の副食が出た。献立表が無かったのか、名前は覚えていない。戦後、海軍主計兵調理術教科書を見たらハンバーグステーキが載っていた。或いはフーカデンビーフだったかも知れない。しかし全般的にみて、経校での食事より質は落ちていた。

我々は空腹感に悩まされていたが、何カロリー程度の食事だったのか。前述の教科書によると、士官は一五〇〇カロリーから二六〇〇カロリー、兵食は三三六〇カロリーとある。一五〇〇カロリーは将官クラスであろう。我々は士官待遇だったとすれば、多くても二六〇〇カロリーだ。兵並みだったら三三六〇カロリーでこれなら空腹感は無かったろう。それとも、当時の食料不足で無視されていたのか。当時の摂取カロリーを知りたいものだが方法は無い。

終戦後校庭で行われた別離の宴には入院中のため参加していない。優秀な教官たちの訓示は、感銘深いものであったろう。この最後の宴の料理はどんなものが出ていたであろうか。思い出になったであろう。残念に思っている。

思い出は年と共に不確実なものになっていく。思い出すままに食いものに限って、下らないかも知れないが取り上げた。経歴については、還暦頃の会報で述べた。読んで損をしたと思う人もあるだろう。だから最初に読むなと断っておいた。今後食事には感謝して、大事にすることをおすすめしたい。無駄にするな。考えて選べ。長生きのもとだ。

 

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