海経さんよ ありがとう!

E 唯 野  典 男

 

 仙台一中四年の時に二高受験に失敗した私は、五年の時に軍人組に入り、海軍経理学校を受験した。

第一日目の海軍経理学校の採用試験の風景は今でも忘れることができない。仙台二中の試験場に、白い軍服姿のスマートな試験官が、すっくと立っている。試験場の座席には若干の空席がある。定刻になったが、試験官の開始の合図がない。部下の教員が焦って「試験官、時間であります」と進言しても頷くだけで、試験官は動かない。どうしたのだろうと思っていると間もなく二、三人の受験生がハーハー言いながら入って席に着いた。その瞬間、「かかれ!」という試験官の声が試験場一杯に響き渡った。遅刻者を待っていたのだと、その時初めて気が付いた。

無我夢中で午前の試験を終え、昼休みの食事の時間となった。試験官が現れて、「お前達の中に弁当を持ってこなかった者はいないか。いれば手を挙げて姓名申告しろ。俺の握り飯をやるぞ」と笑いながら言った。誰もが第一日目の午前の試験が終わった気の緩みもあって、どっと笑った。試験官が優しい兄貴に思えたことだろう。とは言え、相手は試験官である。手を挙げるものはいないと思った。ところが「ハーイ」と元気よく手を挙げ、「佐藤善治です」と姓名申告をした快男児がいた。同期の佐藤善治生徒である。そしてこの試験官こそ三七期が最も敬愛する佐藤政行指導官である。教官のお握りはどんな味だったのだろうか、知りたいものである。

当時は戦局も不利となり、交通事情も食糧事情も日に日に悪くなっていた。佐藤指導官は、このことを配慮して異常の行動を取られたのであろう。受験生は、この時、試験官の親心と海軍の良さを肌で感じたに違いない。戦後人材確保が企業で言われるようになった時、私は指導官が海軍のPRと、遅刻者の中に若しかして優秀な人材がいるかも知れない、と考えられていたのではないかと気付いた。偉大な試験官であったと思うのである。

仙台一中の五年軍人組からは四人合格した。級長の千葉常平、副級長の私、三番の笠原 勇、四番の鎌田正雄の四人だけで、さすがに難関であった。

入校後の思い出を語る手掛かりとしては、三五期の「最後の海軍士官」、蟹山久登一号生徒の「備忘日誌」、片山 潔君の「回想」、「三七会だより」がある。喜寿を迎えて、読んでみると感慨深いものがある。思い出が生き生きと蘇ってきて、何時の間にか歳を忘れてしまう。

これとは別に、私の二、三号の生徒生活の中で、命拾いをした思い出が一つある。游泳訓練の初日の出来事である。游泳訓練の一週間前くらいにプールで能力検定が実施された。確か三十メートルのプールサイドから最初十メートルはクロール、次の十メートルは横泳ぎ、最後の十メートルは平泳ぎの順序で向こうサイドまで泳ぎ着くことで能力検定が行われた。小学校六年まで樺太で育った私は、中学一年の時初めて淡水の貞山堀(伊達政宗貞山公が掘らせたといわれる)で、三日間ほど背の立つところで手ほどきを受け、どうやら浮くようになったまでは良かったが、調子に乗って深いところで泳いで溺れ損ない、それからは一度も泳いだことがない。 プールサイドから水面に飛び込むのが怖かったが遮二無二飛び込み、最後の平泳ぎでは、アップアップしながら長い手を伸ばし、やっとプールの端に手を掛けたのをよく覚えている。判定の結果は中級となった。

一週間後、いよいよ海で本格的な游泳訓練となった。初日は天気も良く海水浴日和。初級の組は早くも猛特訓を受けアップアップしている。それを尻目に我が方は軽い体操の後、浅いところでポチャポチャと身体を水に慣らす準備運動で、極めて快適であった。空も海も青く気持ち良かった。その後に大変なことが起きるとは夢にも思わなかった。突然沖合い目がけて一斉に泳ぐことになったのである。十メートルも泳がないうちにアップアップ、勿論背が立たない。幸いに事故と勘違いされて運よく助けられたものの、溺れ死にするところだった。

原因は検定の間違いだった訳であるが、間もなく終戦となり、再検定はなかった。戦後、日が経つにつれて、原因は短いプールで三種目を泳ぐだけだったので、ひょっとして私のフォームが良く、中級に間違われたのではないかと人知れず思うようになった。知らない人には、やや自慢を交えて話した記憶もある。

それがとんでもない間違いだったことが、平成十四年の浴恩会総会後の三七会で分かった。二号の時同分隊で隣同士だった九州出身の木村一郎が来て、「唯野、あの時の検定は俺と取り違えたんだよ」と真相を事もなげに話すではないか。「えっ」そうだったのかと受け流したものの、形が良かったからと見当違いの自慢をしたことを思い出して苦笑した。家に帰って酔いも冷めた頃、待てよ、それなら木村は俺が死ぬ思いをしている時、初級の泳げない連中の中で悠々と海水浴を楽しんでいたわけだと気が付いた。彼が長い間、言わなかった理由はそこにもあった筈だと気が付いた。今度木村に会ったら、記憶力抜群、博学の秀才木村の学業成績も人違いで、俺のものになって終戦を迎えていれば良かったなあ::と言ってやろうか。三七会の集まりは、こんなことが沢山あって話題が尽きない。思いがけない話題で昔に返り、若返ってしまう。

終  戦

二号は一堂に集合し、正座して佐藤指導官の血涙流れる訓話を聴いた。訓話が進むにつれて、あちらこちらで悔しくてすすり泣く声が聞こえた。その時突然立ち上がって「泣くな!」と大きな声で原壽雄生徒が叫んだのを覚えている。残念ながら無我夢中で彼がどんな話をしたかは記憶にない。

仙台に帰ってみると、駅前が一面焼け野原となっていたが、幸い家は残っていた。駅の改札口を出る時切符を持っていなかったことに気付き、改札係りの駅員に挙手の敬礼(これが最後と思って)したところ、「どうぞ、ご苦労様」と言って通してくれた。家に帰って一カ月くらいは生徒生活のように規則正しい生活をしていたが、いつの間にか不規則な生活に戻っていた。食糧難、生活苦でその日暮らしの生活になっていた。一年以上も過ぎた頃、紺野校長が仙台に帰ってこられた。紺野校長の父は私の父方の祖母と兄妹で、仙台一中の特待生の大先輩でもあったので、何度もお伺いした。あのまま戦争が続けば、生徒と共に本土防衛の第一線に立つことになっていたので、多分皆生きていなかったろう等、色々のお話を伺うことができた。そして、君一緒に農業をやり、晴耕雨読の生活で暮らそうではないかという有り難いお話を頂いた。たまたま、軍人組担当の恩師が訪ねてこられ、父母と私を前に、進学を熱心に薦められた。忘れもしない昭和二十一年十一月三日のことであった。いろいろのことがあったが、結局二高を受験することになり、どうやら合格した。二高から東北大学法学部に進み、常陽銀行に就職した。社会に出てからは、海軍経理学校の先輩、三七期の皆様にどれだけ助けられ、また教えられたことだろう。三年間以上同じ所にいないといわれた銀行生活は転勤転居で大変だったが、全国在住の海軍経理学校の先輩同期を訪ね歩いてはどれだけご好意にすがったことか。本当に感謝の気持ちで一杯である。短かった経理学校生活が、こんなに長く私の人生にかかわってくるとは思いもしなかった。終わりに、三七会生みの親、故日下信之君の「今日もこうして飲めるのは、海経さんのお蔭です::海経さんよ有難う」という歌を思い出して結びとする。

 

 

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