海経の十カ月を思う

              B 伊 藤   孝

 

一、旅立ち(上り列車中)

昭和十九年十月、故郷下関から東京に向かった。当時、一般国民の長距離列車利用は制限され、各駅での切符発売枚数は少なく、長時間行列してやっと入手できる状況であった。但し、軍隊や軍需工場などへの召集、家族の冠婚葬祭などには、然るべき「旅行証明書」を提示して特別の配慮を受けていた。海軍経理学校の入校通知書で乗車券を手にした時、いささかの優越と責任を感じた。父と弟が駅まで見送ってくれたが、初めての夜行列車の旅立ちは寂しく、硬い座席に薄暗い灯火の夜汽車の旅は長かった。向かいの席は年配の陸軍軍人であり、目を閉じて終始黙考の様子であった。

翌日の昼過ぎ、運よく憧れの富士山が姿を見せてくれた。写真や絵画で見ていたものより遥かに雄大で美しく、感動して、視界から消え去るまで見惚れていた。沿線の田圃は黄金の波、その風景はまさに「日本の秋」そのものであった。

この頃には前の軍人さんも話しかけてくれるようになり、海軍の学校に入校するのだと告げると、温和な顔を一瞬硬くして、「それはご苦労さん。頑張ってくださいね。僕は満州から公用で帰ってきたのだが、日本は本当に綺麗な国だね。このままの姿で戦争が片付くと良いのだが、なかなか::。でも、あんた達は生き残ってね。頼みますよ」終わりは呟くように言われた。なんと答えていいのか分からなかったが、この一言は長く耳に残った。

夕刻やっと品川駅到着。目黒の親戚に宿泊し、翌日入校した。

二、生徒生活

翌日から昭和二十年八月の敗戦までの十カ月は、初めて経験する特殊の教育方針での団体生活に、右往左往する毎日であり、何も身につけるものがないうちに過ぎ去ったが、世間から隔離された頼りない三号を叱咤激励する一号生徒や教官の中には、真の海軍軍人として畏敬される方も多く、学びとるものがあった。

三、帰郷(下り列車)

敗戦から数日後の八月下旬、夫々の故郷に向かうべく校門を出た。地方別に何名か集まって明石駅から適宜乗車することになったのだが、これからが大変。やっと来た列車は超満員、タラップにも人がぶら下がり、全く乗車できずに見送り。仲間ともはぐれ一人になった。更に待つこと一時間、列車が到着。目の前の一車両には海軍軍人が多数乗っていた。これ幸いと窓からもぐりこませてもらった。発車後暫くはやっと帰れるとの安心感に浸っていたが、異常な雰囲気を感じ始めたのは岡山近くからか。そばの少年兵に聞きただしたところでは、彼らは駆逐艦の乗組員で、ドック中の艦に向かっているとのこと。残存勤務のためいつ復員できるかも分からず、不安と不満を抱えた旅のようだ。そこに窓から突然若造が乗り込んできたのには、彼らも驚いたに違いない。しかも一言の挨拶もなく黙然と直立しているのは何様だ、退屈凌ぎに一ついたぶるかということになったらしい。先頭を切ってリーダー格の髭面が声を掛けてきた。

「そこのお若いお方は、どなたですか」一応丁寧な質問に、こちらも経理学校の生徒であり、帰郷途中たまたまこの列車に乗り合わせたことを説明した。その後は辛辣な質問が続き、内容も愚劣になってきた。今でも記憶しているのは、「あんた達は、敵と戦ったことがあるか。何度も海で命を失いかけた俺達のことをどう思っているか?」、「内地で、のうのうと過ごしている間に、何人の兵隊や国民が死んだか知っているか?」、「その腰の短剣は、飾りか。そんな物で敵を殺せるのか。抜いて見せてくれないか」等。

だんだんとエスカレートしてくる言葉に、一切返答せず、黙殺する以外なかった。アルコールが入っている様子もないだけに、歴戦の兵士の声は、厳しく響いた。車内も何とも言いようのない雰囲気となってきた。

列車が広島に近い小駅に停車した時、突然年配の下士官が、「おい、あれはなんだ!」と大声を上げた。皆の目に入ったのは、駅の改札口によりかかる親子かと思われる二人、幽鬼といっても表現できない残忍な姿に息を飲む。全身酷い火傷、爛れた皮膚が僅かに残った着衣と見分けがつかずにたれ下がっていた。意識があるのか無いのか、両手を前に下げて動かない。

「ひどい!これは特殊爆弾だ。ひどすぎる!」全員声にならない。被爆後殆ど治療も受けられずに、生死の中を彷徨って駅に辿り着いたのだろう。それは原爆の非道を無言で訴える余りにも衝撃的な姿であった。列車は暫くして発車したが、その間二人は微動だにしなかった。車内の空気は一変した。皆申し合わせたように無口になり、先程までの喧騒と非難攻撃は嘘のように終わった。

ようやく長旅も終わり下関で下車する時には、頑張れよと声を掛けてくれた人もいた。

四、我が家(敗戦を実感)

二十年六月に二度の空襲で、新築したばかりの家を失った父母は、郊外の海水浴場の近くに仮住まいをしていた。やっと探し当てた我が家の入り口で夕餉の支度をしていた老婆が、一年ぶりの母とは信じられず言葉をなくした。家の焼失、他人との同居生活、食糧難、出征した三人の息子の安否等、今まで経験したこともなかった苦悩が、父母の心も肉体も打ちのめしたのだ。突然目の前に現れた息子に、一瞬驚いた表情を見せた母は、「お帰り、よう帰ったね。疲れたろう。こんな所だけど休んで」とだけ、後は余り言葉もなかった。父も出てきて「おーう!帰ったか。よかったなー」と一言。後はしげしげと息子の姿を確かめるような表情だった。こんな所と母が言った住まいは、六畳二間の親子三人のお宅に我が家の六人が同居していた。正に夜露をしのぐのがやっと、酷暑の夜に寝るスペースをつくるのも大変な状況であった。幸い十一月に五間の二階家に移ることができた。この間の生活は被災国民としては一般的なものであったかもしれないが、惨憺たる日常に、敗戦国の悲哀を実感させられた。

「海経の十カ月」の間に、我々が娑婆と称していた国民の生活は、アメリカの無差別爆撃で壊滅し、二個の原爆で息の根を絶たれた。「戦争の悲惨さ、恐ろしさに直接対決したのは第一線で戦った将兵と、食料不足の生活の中で家を焼かれ、肉親を失った人々であり、自分はその間何をしたのか、何の役に立ったのか?」との自責の念は強く心に刷り込まれ、上り下りの車中の体験と共に六十年経った今でも消えることはない。

五、今思うこと

高校二年生の孫が、この春広島を訪ね、原爆記念碑、資料館を見学し、被爆老人ホームを見舞って来た。直後、井伏鱒二の「黒い雨」を読んでレポートを纏めていた。海経入学時の年齢と同じ年になった孫が、原爆や戦争をどう見ているか分からないが、我々とは二世代のギャップは大きくても、それなりに判断していると思う。

戦争という愚かな行為により我々が見聞した数々の過酷な事実、非人間的な行為、悲惨な生活を、子供や孫が再び経験しないで過ごせるような国が確立されるよう願う昨今である。

 

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ