三七期五百一人目の誕生物語

                 A 市 川  和 夫

 

昭和八年十一月、浅間丸の船上から見た富士山の神々しい姿に、七歳と幼いながら、私の胸の底から父母の国日本「倭シ麗シ」の思いがゆり動かされた。

私の父は、明治三十二年九歳で移民としてハワイを目指し、数年後アメリカ本土に渡り、カリフォルニア州の州都サクラメント近郊ウィンタースで富豪のウィリアム・ベーカー氏の農園で果樹栽培に従事し、成人してそこの支配人となり、日本移民二十名余りを仲間として「ベーカー・ランチ」の経営に当たった。大正末期、カリフォルニアから始まった日本人排斥運動に遭遇し、当時の日本人会長として日夜を分かたず事態打開のため立ち向かったものの、心労から胃癌を発病し、昭和八年十一月、二度目の手術を日本で受けたいと帰国することとなった。我々家族(母と姉三人)は、父母の育った祖国を訪ねるチャンスといった気分で同行したが、十二月東京で手術をした父の病状は、思いの外深刻な事態ということであった。年明けて昭和九年、故郷の和歌山県海草郡西脇野村大字日野なる山里に居を移したが、死期を察した父は、「男子たる和夫は日本人だから中学までの教育は日本で受けさせろ」と言い残して、一月二十四日この世を去った。

「白人に負けてなるものか。日本人は日本人としてのプライドと勤勉性をもって堂々と人生を歩まねばならん」という父の訓えは、爾来私の血の中を脈々と流れている。

昭和十八年、和歌山中学で四年生になったばかりの頃、一年先輩の方々から校友会誌「白菊」で、「今の四年生は軍部の学校を受ける者が非常に少ない。祖国存亡の今日、この有様は非国民という外ない」と糾弾された。校長の指導のもとに翌年の新五年生全員が軍部の学校を受験する方針が樹てられ、父兄が了承する旨の一札を提出することとなった。お袋とこのことについて話しあったが、在米二十七年(八歳から三十五歳)の母は、日米の生活程度や工業力の差、白人の有色民族に対する考え方などをあげ、「残念ながら今どんなに頑張ってもアメリカに勝てるわけがない。戦場に出れば必ず死ぬ。こんなことのためにお前を産んだのじゃない。白人を見返すような仕事をしてほしい。そんなに死に急ぐことはない」と頑としてハンコを押してくれなかった。私は、黙って三文判を買い勝手に誓約書を学校に提出し、海軍経理学校を受けたのだった。そして八月、私達は学徒動員で、明石の玉津にあった「川西航空」の工場で戦闘機の鋲打ちに励んでいたところへ合格の通知がもたらされた。

お袋も漸く納得し、軍艦に乗って戦うなら不必要かも知らんがと言いながら、大枚百余円を出して昭和新刀を買い求め持たしてくれた。

十月初め入校に当たって品川駅前の旅館に着いたところ、三七期石井次男主任指導官と私の所属が予定されていた第二分隊高木彰分隊監事が宿に見えられた。私がアメリカ生まれであり、アメリカ市民権と日本国籍を有することを確認された上、二重国籍では具合が悪いのでアメリカ市民権を放棄する旨の誓約書を書きますかとの話があり、私は即座に書きますと返事し、確か裁判所に提出する形式の文書を書いて署名した。当時、経理学校に中学の先輩杉山績教官がおられたこともあり、ホッとされたようだった。私の方も受験時杉山教官が試験官として来られており、また弟さんが一年上でしかも同じく陸上競技部にいた関係でよく先輩の話を聞いていたので、母校と先輩の名誉を汚さずにすんだと胸をなでおろしたことだった。

こうして入校したすぐの温習時間、何やら後ろの一号生徒がざわつく。「おい、アメリカ人てどこや」、「あそこ」といったひそひそ話が耳に入る。そして鬼より怖い三五期生徒が順次二人三人と入ってきては私をみて帰ってゆく。「何じゃ日本人と変わらんじゃないか」と。私は「当たり前じゃ。俺は誰よりも日本人の心を持って来ているんだ」と心の中で叫んでいた。

海軍経理学校第三十七期合格五百一番目の男はこうして生まれたのであった。

 

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