空襲下の「臨死体験」

   ―海軍病院で見た大戦末期の実相―

                  @ 横 井  忠 俊

 

□運命の夜

 決して忘れることのできないあの晩、それは昭和二十年三月七日のことだった。

 夕方から、下腹部に妙な鈍痛と軽い吐き気があり、気にしながら「巡検用意」でベッドに入ったが、まだ眠りにつかぬうちに、鈍痛は激痛に変わり、全身に脂汗をかきつつベッドの上に輾転反側しつづける。高熱を発していることが自覚され、「これは只事ならず」と、何度起き上がって伍長に届けようと思ったが、昨今、再三の「傷」や「病」のため「休業」、「軽業」を繰り返しているわが身を省みて、それも憚られ、「どうする?」、「どうする?」と自問自答を重ね、一睡もならぬうちに遂に起床ラッパが鳴り響く。歯を食いしばって、本能的に起き、無我夢中で「起床動作」をしたものの、食堂に入る前、猛烈な吐き気のため、今にも倒れそうになり、伍長に届けるのもそこそこに這うようにして治療室に辿りつく。

 果たして三九・七度の高熱あり、軍医官の触診と血液検査により、「急性盲腸炎にて、直ちに手術を要す」こととなり、百渓(モモタニ)軍医中尉付き添いのもと、車の座席に横臥、患部を冷やし続けつつ「大阪海軍病院鳴尾分院」(「甲子園ホテル」を接収した特設病院)に搬送せられ、一五〇〇、外科々長・桜井軍医少佐執刀のもとに、開腹手術を受ける。

 麻酔からさめて痛みは九日もつづき、熱は三八・五度持続、絶食させらる。十日朝、少量ながら、はじめてガス放出あり、夕食は「お茶」三〇グラム供される。熱はなお三八・三度を下らず。夜間再三の「警報」あり。この間、東京にB二九、百三十機来襲、歴史に残る大被害ありし由。

 十一日から逐次解熱、三七度台となり、食事は十二日から「果汁」となる。しかるに、運命のこの日、二三一五より十三日〇〇二四にかけ、B二九、九十機、大阪に「焼夷攻撃」あり、「空襲警報」、「総員待避」かけられるも、未だ手術後四日目、「絶対安静」の身のため「担架」にて、戸外に担ぎ出されたが、本院には未だ「防空壕」の施設なきため、「要担患者」は、なんとこの寒空の下、松林内の地面に横たえられ、朝まで放置さる。寒さを防ぐものは、僅かに白衣一枚と、ハーフサイズの海軍毛布一枚のみ。凍てつく大地の寒気が全身に厳しく迫り、時折奏でる松籟の音を恨めしく聞きながら、歯をガチガチ鳴らしつつ全身を震わせて、耐えに耐えたが、果たせる哉、「待避もとへ」でベッドに戻るや、四〇度の高熱を発し、忽ち「急性肺炎」を併発した。

 後に知った「カルテ」によれば、この時「左肺」は殆ど冒され、喀痰からは、「連鎖状球菌」、「ブドウ状球菌」、「双球菌」多数が発見され、この後は四〇度の熱が連日持続し、遂に「呼吸逼塞」の状態となった。

 自分では空気を吸おうとするのに、胸の中が狭くなってしまったようで、呼吸が全くできず、苦しみもがきながら痙攣を起こすのみ。直ちに酸素吸入が実施されたが、この頃から殆ど失神状態となり意識は混濁し、やがてもうろうとなった。

□臨死体験―「あの世をみる」―

 この時、私は世に「臨死体験」と言われる不思議な体験をする。(当時はこの「用語」もなく、そのような既成概念はなかったらしいが、昭和四十―五十年頃、この言葉がマスコミによって浮上してから、俄かに知られるようになったらしいが、若しこの現象を「臨死体験」と呼ばないのなら、それは「昏睡状態における幻覚と幻聴」と呼ぶべきであろう。)

 未だ経験した人は多くないであろうと思うので、この体験を具体的にご紹介する。

 先ず、私の前に大きな回り灯籠のような円筒形のものが現れ、それがゆっくり回り出す。これに目をこらすと、今までの人生が、幼児期→少年期→青年期―のように順序正しく、一こま一こま現出しては消えて行く。世上よく言われる「走馬灯」である。しかも、その一こま一こまは要約したものではなく、「イタズラをして親に叱られたシーン」とか、「木登りをしていたら雷鳴が轟き、足が竦んでしまったシーン」とか、又「文房具のおつりで学校脇の店で悪友と今川焼を食べた思い出」など、忘れていたような微細な想い出が次々と出て来るのだった。即ち、己の歴史を自然に回顧できる風情なのだった。一通りこの「回り灯籠」のストーリーが終わると、場面は一変し、かって見たことのないような美しい風景が現れて来た。

 空には美しい紫雲の霞たなびき、地上には清らかなせせらぎが光を放ち、うす桃色の蓮の花が静かに水面に影をおとすと見るや、天上から妙なる音楽―夢の中で聴く「ベートーベン」第九交響曲第三楽章と思われるメロディーが静かに流れて来たと思うと、これらが前景と前奏曲であったかのように、奇しくも美しい「慈母観音」のお姿が彼方から次第に近づいて来られ、やがて優し気に微笑みながら静かに、こちらへ手招きされるのだった。

 それに接した私は正に金縛りにあったように、体も動かず、思考もとまり、ただただ有り難い至福、法悦の境地で恍惚となるのみ。

 私は余りのことに呆然としながらも、「ああ、自分は今天国に召されてゆくのだ」とごく自然に納得し、それを「究極の幸せ」と自覚するばかりで、「死へのおそれ」も「生への執着」も全くなかったのである。

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  横井君から、前文に始まる長文の自分史を戴きましたが、極めて長文のため、ここにはその序説にあたる部分を掲載し、これ以後の全文は、三七会「基本ファイル」に登載し、いつでも、誰でもアクセスできるようにしました。        編 集 部

 

 

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