海軍思い出すままに    

@ 中 村  誠 一

           

以前クラス会の席で同期生の皆様に話をする機会を与えられた時、何回か申し上げたと思うのですが、海軍は、私の人生の原点を成した大切な組織であったと今でも思っています。栄光に輝き、自由に考えることができ、発表することができ、良いものはそれを採用してくれるような柔軟な頭を持った組織であった海軍。それと昭和十八年半ば以後の敗戦に次ぐ敗戦で追い詰められていった時期の海軍。それらを全て含んだ海軍が私の人生の原点になっている訳です。

一、戦前の海軍と私 

 私の父は、私が生まれた時海軍中将に進級し、昭和十一年三月予備役に編入された時は海軍大将でしたから、私は、当時としてはかなり甘やかされて育ちました。昭和六年佐世保の長官になり、又その一年後呉の長官になったのに伴って軍港で育ちました。これらの軍港では多くの軍艦を見、颯爽と歩く軍人たちを見て、「僕も大きくなったら海軍士官になるぞ」といつも思っていました。

 今、私の書斎には、海軍正装の父の肖像画、「戦艦大和」の四百五十分の一の精巧な模型(超大型戦艦の基本計画がほぼ纏まり詳細設計に入ろうとする昭和十年十一月、父は軍事参議官兼艦政本部長でしたが、この戦艦を建造するに当たって艦政本部の関係各部長に、基本的考え方を訓示しています。いわば大和建造は父の現役での最後の仕事でした)、東郷元帥揮毫の「精神剛健」の額、父の書いた「萬機一誠」の色紙、漢文で書かれた教育勅語の掛軸、父が第二艦隊長官であった時の旗艦妙高の後甲板に大礼服を着て立っている写真(後ろに軍艦旗が翻っている)、昭和二十年一月二十八日(日)垂水に移るに当たって家に帰り、父と二人第一種軍装で家の玄関前で写した写真等が置いてあります。これは私の海軍に対するノスタルジアで、子供心に憧れていた海軍の延長線上にあるものです。

二、病気について

 私は、生まれて半年程で百日咳に罹ったそうで、以来冬になると殆ど肺門リンパ腺炎から肺炎となり、学校は休んでばかりいました。小学校五年の時、アデノイドと扁桃腺を切る手術を受けてから随分元気になったと自分では思っていたのですが、中学三年の夏から乾性肋膜炎に罹り、二学期を全部休むという状況に陥りました。留年にこそならなかったものの四年で受けられる筈の軍関係の試験を受けられる状況にはなく、父母共に私が軍人になるのは無理だと思っていたようでした。

三、海軍の体格検査

 五年生になって、ここで受からなければ、海軍士官にはなれないと思い、必死で勉強しようと思いましたが、学術試験の前に行われる体格検査に受からなければ何ともなりません。当時視力は〇・六しかなく兵学校は無理なので、〇・八あれば入れる機関学校を受けようと思い、勉強はそっちのけにして、遠くの景色を眺めて視力の回復に努めていたところ、やっと〇・八まで見えるようになりました。ところが体格検査の受験場所が上野中学の雨天体操場で、当日は雨が降って中は非常に暗く、全然視力は届きませんでした。受験校を経理学校に変更するなら次に回すがどうするかということでしたので、そうせざるを得ないことになりました。ところが胸囲で二センチ足らず、不合格になってしまいました。

 しかし、ここでこのまま帰ってはどうにもならないと思い、全部が終わるのを待って再検査してもらおうと考え、待つことにしました。その時間の長かったこと、泣きたくなる程でした。やっと全員が終わったところで、間髪を入れず軍医官の所へ行き、再検査をお願いしたところ、不合格の書類の中から私のものを見つけ出し、やおら自分で巻尺を持って七十二センチの所に合わせ、少々弛んでいたのに拘らず「胸囲七十二センチ」と言って水兵に命じ書き直させ、更に残っていた検査を全部自分でやって、合格にして下さいました。

 その頃、再検査を頼むとその意気を認めて合格にしてくれるときがあるということを、風の便りに聞いていたように思い、粘ったと思いますが、この軍医官のお蔭で命拾いした訳です。

四、垂水分校

 垂水時代は、いわば野戦学校だったと思っています。六月に沖縄戦が終わり、次は本土決戦といわれているのに、学校にはろくな小銃も軍刀もなく、数も僅かで、これでどうやって戦うのかと思っていました。戦うための最小限の武器もなく、ただ殺されるというのは何としても納得できず、どう理由をつけたら納得して死ねるのかということを、第一生徒館の屋上に上って緑豊かな淡路島を眺めながら考え続けていました。結論は終戦まで出ませんでした。

 あの頃生徒の皆さんがどう考えていたのか、誰もそれに触れる人がいませんでしたので、第一分隊会の世話人と坂本伍長と会食した時、意を決して聞いてみましたら、「そんなこと考えてもいなかった。お前随分覚めた目で見ていたんだな」と一蹴されてしまったのですが、皆が「敵の喉笛に食らいついても戦うんだ」と本当に信じていたのか、今でも疑問に思っています。 

 捲土重来を期すということを考えるのが、そもそもの日本海軍の考え方ではなかったか、という気がしていますが。当時の海軍はもうそこまで考えないようになってしまっていたのでしょうか。そうではなかったような気がしていますが。

 

まだいろいろ考えていた事もあり、戦後どのように考えて生きてきたかも述べたいのですが、またの機会があればと思っています。

 ただ、私が大学以来専門に勉強してきた「経営分析」の研究でも、挫けそうになった時、それを食い止めてくれたのは、海軍に籍を置くことによって得た誇りと気力によると思っています。

 

 

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