まさかの海軍経理学校合格

@ 北  川   昭

 

 長い人生を振り返ってみると、一生を左右する出来事が幾つか思い当たる。私が一番に挙げたいのは海軍経理学校合格である。若し落ちていたらと思うと、私にとって間違いなく大きな岐路であった。

 昭和十四年小学校を終え、当然のこととして京都市立第二商業学校に入学した。家庭事情から中学校への進学は考えもしなかった。

 既に日中戦争に突入して二年、学校では軍事教練の比重は日増しに高まっていたが、それでも世の中は普段と変わらず、学校の先輩も高等商業学校への進学が大勢を占めていた。しかし、十八年、五年生になって進路に疑問を持ち始め、二学期を前にして突然進路変更を決意した。全く無謀な方向転換であった。既に軍の学校入試は十九年を待つほかなかった。取り敢えず官立の工業高等専門学校に的を絞ったが、無残敗退、私立の工業高専に鬱々として通うことになった。前途に対する不安に、今思い返してもよく耐えたと思う。

特に軍関係の進学には、私のような商業学校生には、理数科目が最大の障壁であった。まして海軍経理学校となれば最難関であり、正に絶望的な対象でしかなく、この時ほど中学校卒でないのを悔やまれたことはない。無謀と思える冒険に挑戦することができたのは、正に若かったからだと思う。 

今でも十九年の入試は忘れられない。私どもは京都府立第二中学校が試験会場で、中学出身者に対する抜き難いコンプレックスを抱きながら戦った。ところが、ある出来事を契機にそれが杞憂に過ぎないことを知ることになった。数学の試験が終わった後、試験官の注意事項の伝達があるからと会場に留まっていたら、スマートとは言えないが、純白の軍服に身を包んだ恰幅の良い海軍主計少佐が登壇した。緊張する我々に飛び込んできた言葉は、「商業学校出身者で数学が満点の者がいた」であった。その瞬間、自分かも知れない、間違いなく私であると確信に近い思いに心が躍った。これまでのコンプレックスは吹き飛び、明るい希望の光を見出した。京都市内からは一中一人、三中二人、それに私の四名が合格した。私の予想に間違いはなかった。その主計少佐が小谷教官であったことは入校後知った。更に今一つ忘れられない思い出がある。それは少佐が、「君達、試験期間中は手淫は禁止せよ」との達しであった。未だ嘗て試験官からこのような注意を受けた記憶はなく、呆気にとられていたが、これは先輩としての親切な忠告であったのかも知れない。

入校後は負けまいと懸命に頑張った。品川、垂水での三号生活は極めて実り多いものであった。

石井指導官をはじめ、一分隊坂本伍長ほか一号、二号生徒の指導の下、栄養不良に因る体力不足も回復し、足りなかった基礎学力も充実させることができ、今にして思えば誠に有り難い学校生活であった。

戦後、旧制高校で兵学校コレスの友人が、「兵学校は高校の予備校でもあった」と述懐していたが、私もこれは否定しない。

海軍経理学校生活は、一年足らずの短い期間に過ぎなかったが、多くの貴重な勉強ができたことを、今もって感謝している。

 

 

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